【 色んな仕事をしています ④ 】
国民の大半が開催に反対したとされる東京オリンピック2020。まだパラリンピックはこれからだが、賛否両論ある中で最終的に無観客で開催され、日本勢は史上最多のメダルを獲得したようだ。わざわざ「獲得したようだ」と書くのは、私はテレビで中継を全く見ていない。何故なら昨年の10月初旬に自宅近くに落ちた雷の影響で、テレビが映らなくなってしまい、それ以来修理をせずにいて、我が家はテレビを見ない生活を10ヶ月ほど続けている。
そして今回の状況下におけるオリンピック開催への賛否表明や、オリンピックに触れることをFacebookで一度もしていない。 何故か?
それは「広島アジア大会1994」と「長野冬季オリンピック1998」において、スポーツイベントにおける作曲の仕事を依頼され、これまで関わってきたことが大きな理由。ある意味複雑な心境でもある。スポーツイベントの素晴らしさにも、ドロドロとした内情にも、仕事を通してほんの少しだけ触れてきた人間。コメントできる立場ではないと考えていたからだ。
ただ開会式や閉会式でのパフォーマンスへの酷評が気になっていた。「何がこれまでと違っているのだろうか?」と、スポーツイベントの音楽制作に関わったことがある人間として思っていた。全てを見たわけではないし、YouTubeにアップされているほんの少しだけしか見ていないので、確信を持って言えるわけではないが、見た範囲のものは「テレビサイズ」の演出であり音楽だったように感じる。良し悪しの問題ではなく、明らかに私が関わっていた時代とは大きく異なる企画と、パフォーマンスの演出だったように感じている。
私がスポーツイベントの仕事を最初にしたのは、今から27年前の1994年。当時まだ関西で活動していた自分にとって、年齢的にも人脈を広げる意味でも、東京に仕事の拠点を移せるのはおそらくラストチャンスだと考え、その年の1月から本格的に東京に仕事の拠点を移すための準備を進めていた。例えて言えば、自分が乗りたい船はすでに最終便が出港していたが、高速船で追いかけ何とかその船によじ登ってでも乗り込む手立てを考えていたようなものだ。
その準備の中である人物に紹介してもらい、当時の電通プロックス(現、電通テック)のN氏を紹介してもらい、お目にかかった。商業的な仕事の実績はテレビ番組、映像作品、テレビCM、舞台音楽などすでに関西圏や北陸圏で色々あったが、ローカル色は否めない。ただアピールした内容に「アジアをテーマにした音楽」をライフワークの一つにしたいと思っているということがあった。会ったのは1994年の2月頃で、私が37歳の時のこと。そのN氏はその後すぐに電通プロックスを辞め、4月に独立して会社を起こしていた。そのN氏のもとに起業早々依頼が入ったのが「広島アジア大会」の開会式パフォーマンスの音楽1曲。依頼元はその「開会式」「閉会式」のすべての演出を手掛け、それまでも多くのスポーツイベントなどを手がけていたベテラン・プロデューサー氏(以下P氏)で、電通プロックス時代にはN氏の上司でもあった人。
P氏からの依頼を受け、N氏はその作曲の候補者として、真っ先に私のことが頭に浮かんだようで、有難いことに連絡をいただいた。どうして1曲だけなのか不思議だったが、話を聞くとすでにリハーサルが始まっていた演目のうち、開会式パフォーマンス冒頭部分の音楽がどうしてもP氏のお気に召さず、どうしても差し替えたかったらしい。
そのような場合の大切な要素の一つが「クイック・レスポンス」。音楽の方向性に関するP氏からの指示をN氏からお聞きしてすぐに作曲を開始し、自宅で録音して翌日の最終受付に間に合うように宅急便の営業所に車を走らせた。依頼が私のもとに月曜日に来たと仮定すると、水曜日午前中にはクライアントのところに音楽が到着していた。
現在のように数ギガ、数10ギガも容量のある音楽ファイルを、インターネットで送るということなどまだ未知で不可能な時代。巷ではようやく弁当箱のような形状で肩から下げる携帯電話が出回り始めた頃だった。
それでも東京と関西という距離感を感じさせないスピード感は大切だと考えていたし、クオリティとの両立がとても大事な要素だった。その意味で宅急便の早さと到着時間の正確さは、当時の私としては現在のインターネット以上に有難い存在だった。
その結果、幸運にも私が作曲した楽曲は、P氏の評価を得て採用となり、さらに想定外な方向に進むことになる。他の作曲スタッフからすでに納品され、リハーサルも始まっている楽曲を、私に作曲し直して欲しいという依頼が、P氏から次々に来ることになった。青天の霹靂で、望外の喜びでもあった。錚々たる広島アジア大会の作曲スタッフ(父と祖父の光を合わせて十四光の方など、若手でも東京で活躍する当時から売れっ子だった作曲家複数名)の中に混じって、私はただ1人関西で仕事をしている人間だったが、最終的に開会式と閉会式のパフォーマンスで採用された楽曲数も一番多く、いわゆる「おいしい」シーンの音楽をすべて作曲させていただいたようなものだった。
ただこのP氏のダメ出しも凄かった。「音が薄い!」「もっと全体の音を分厚く!」「もっとスケール感を」「もっと、もっと、もっと」というもので、何度もリトライした。長くなったが、この回の文章3ブロック目に書いた「テレビサイズ」との違いが、実はそこにある。
スポーツイベントの開会式や閉会式は、メインの会場となるスタジアムで行われるのが一般的。そのある意味巨大な舞台で行われるパフォーマンスを、スタジアム全体をキャンバスと捉えた企画・演出や音楽を目指すのか、テレビ画面という枠に収まることを目的にするのか・・・。 上記の写真は広島アジア大会のメインスタジアム。その大きさは想像できると思う。 そして下記は私が作曲した楽曲の一つで、広島アジア大会閉会式の最後を締めくくる、最も感動的なクライマックスシーンの音楽だ。テレビというメディアやCDで聴くことを前提としない、つまり「リスニング・ミュージック」ではない世界。聴くという観点だけから言えば音圧があり過ぎる。これまでの3回の音楽と比べていただければ、すぐにわかる。
今回ご紹介する最初の音楽はこんな展開の中で使用された。 ストーリー性のある流れの中で閉会式のパフォーマンスのプログラムは進行し、迎えたクライマックスシーン。スタジアム全体が一瞬にして暗闇に包まれる。期間中懸命に闘ってきた選手たちの熱い情熱を象徴するかのように、スタジアム内に固定された花火が点火され回り始める(下記にリンクを貼った音楽は、このシーンから始まるもの)。 それを合図に四方八方から松明を手に集まってくるたくさんの半裸の男たち。スタジアム中央に整列すると同時に群舞が始まる。それはまさに「アジア」という多様でエネルギッシュなエリアへの賛歌でもあるように感じた。 そして再び暗闇となり、ここからが最後の最後のクライマックス!暗闇の中で夜空に飛び立っていく平和の象徴「白い鳩」を象った紙製の風船。それを照らし出す何本ものサーチライトの光。何ヶ月にも、何年にもわたり苦労してきた選手たち、多くのスタッフがそのサーチライトの先を見つめ、大観衆とともに感動を共有する感動的なシーン! 私もスタジアムで立ち会っていたが、やはりテレビサイズの演出では決して得られない鳥肌が立つ感動を味わった。 ★ここをクリックしてスタジアムにいる自分を感じてください! 如何だろうか?風の音や何かが弾けるようなSE(サウンド・イフェクト)も含め、厚みを出すために重ねているエレキ・ギター以外はすべて私がデータを入力し、シンセサイザーで鳴らしているもの。 ある意味うるさいと感じたかもしれない。ところが大きなスタジアムではこれくらいでちょうどいいということを、この仕事を通してP氏に教えていただいた。「もっと、分厚く!!」という声が今でも聞こえてくる。男気とリーダーシップに溢れ、男が惚れるタイプだったP氏。 彼の仕事を細かくサポートし陰で支えていたのは、当時P氏の秘書的存在の女性(後にP氏と結婚)。知的で品があり、誰にでも優しく、人間的にも女性としても魅了に溢れた美しい方だった。クライマックスの夜空にゆっくり飛び立つ「白い鳩」を共に近くで見上げながら、ふと彼女の横顔を見ると、涙が頬を伝わっていた。 万感の思いだったと思う。今でも記憶に残る印象的な涙だった。 (飛び立つ「白い鳩」は、環境をできるだけ壊さないようにという配慮から、水に溶けやすい紙でできていた)
そして4年後に行われた長野冬季オリンピック1998。 開会式・閉会式の総合演出は劇団四季の浅利慶太氏だったが、当然P氏も関わっていた。ただ私はパフォーマンス部分ではなく、「公式楽曲」の作曲を担当したので、直接P氏と関わることはなかった。その楽曲は、各地の聖火リレーの会場で毎日流れ、公式スポンサーだったコカ・コーラのコーヒー・ブランド「ジョージア」のテレビCMの音楽としても流れていた。ブラスバンド・ヴァージョンは地元の中高生たちが演奏し、聖火リレーを盛り上げた。そして様々な五輪関連セレモニーでも使用された。 この楽曲は、仕事の依頼主でもある当時の電通テックプロデューサーS氏との共同名義の作品になっている。なぜかというと、楽曲のメロディーの出だしのイメージが打ち合わせ時にすでにS氏にあり、「こんな感じで」と彼がメロディーの断片を口ずさんだからに他ならない。そしてその断片を形にし、冒頭のファンファーレ部分や全体の構成をして形にしていった。「不自由な」一例でもあるが、形にするのが私の仕事であり役目でもある。
下記YouTubeの音源は長野冬季オリンピック終了後、数ヶ月してから開催されたJOC主催「オリンピックコンサート1998」での演奏で、そのコンサート用に改めて再構成しオーケストレーションした。 当時のJOCコンサート担当者からいただいた音源だが、レコーディングを目的にしたものではなく記録用のなので、マイクポジションも悪くバランスがあまりよくない(木管があまりよく聞こえない)。ただこの楽曲は大きなスタジアムでのパフォーマンスを前提とした楽曲ではないため、リスニング・ミュージックとしても成立する。
次回は大阪在住の人ならほとんどの人が知っているあの場所のあのメロディーのお話。
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